[20191109]自分探しで迷う人達へ

「自由論」という古典を読み始めた。
正直難しくて、全然読み進められないのだけど、そんな私にも一つだけ、自由に関連する物事で、分かっていることがある。

自分が何に幸福を感じるか、答えられない日本人が多い。

ということだ。

幸福とは快楽ではない。
幸福とはストレス発散の方法ではない。

自分にとっての幸福とは何か?
あなたは答えられますか?

具体的にたくさんの人にアンケートをした訳ではないけれど、以下の事実だけで、「答えられない」人がとても多いことは自明だ。

・日本は自殺大国であること。

どうして自殺が多いか。
それは自分のなすべきことを見失うからだろう。

ちなみに借金を苦に自殺ってパターンもあるけど、日本は借金をする人にとっては、これ以上ないほど、都合のよい国だ。それって調べればすぐに分かることなのに、

「借金は恥ずべきこと。」

と教え込まされる社会だから、命よりもその恥の方を優先してしまうのかしら?武士か?

借金をすると心に余裕がなくなり、視野も狭くなるので、冷静な判断ができなくなるからなのか?それとも「社会が許さない」と思うからなのか?

で、なんなん?社会って?

ま、それはさておき、どうして、なすべきことを見失うのか?

それはあまりにもたくさんの「自由」を産まれた時から手に入れることができるからだ。

一見、全てが自由であることは、とても幸福であることのように思える。

しかし、考えてみて欲しい。

例えば、車を買おうとして、

3種類の車から選ぶこと。
1万種類の車から選ぶこと。

一見、後者の方がより幸福に感じるかもしれないが、車というものに前知識がないことを前提で考えれば、後者の車選びは地獄である。

まだ車選びなら、「車」という枠組みの中で選ぶのでマシかもしれないが、人生は自由。もちろん顔形、骨格、背の高さ、運動能力の高さと頭の良さは選べないので、そこには自由の制限はあるが、日本人として生まれただけで、車のほとんどのパーツを一から一つずつ全部カスタマイズして、設計できる。もし車に多少の知識があれば、そこまでの細かいカスタマイズができることは大変に喜ばしいことだと思うが、いきなりこの世に産み落とされ、何も分からないまま「一から全部選べ!」というのは大変に酷なことである。

そこに更に追い討ちをかけるように
「キミは何がやりたい?」「夢を描け!」
と実態のない「社会」が問いかけてくる。

何かをなすことが善で、
なさないことが悪である。

という風に思いこまされる。

個人としての欲求を満たすことを善とする考えだ。

でも運動会では1位を決めず、全員を1位とする、意味不明の公平をも同時に刷り込む、矛盾だらけの国だから、そりゃ迷うよ。

よくよく考えたら、穴だらけ。「そんな風潮、気にしない」と思っていたとしても、それでも大抵の人間は実態のない「空気」に呑まれる。

「何かを為さなければ!」と必死になって、一生懸命SNSに投稿し、「自己承認欲求」を満たそうとする。 ただの 「自己承認欲求」ね。「自分を認められたい」ってだけの感情。

そこから更に「なすべきことは何か?」と社会が問う。

更に自己承認欲求を高め、中身がない「いいね」さえももらいたがる。

そのうち手段を選ばず目立つことを優先する者も出てくる。

それでも自己承認欲求は高まる一方。常に枯渇状態。ついには自分が何をなすべきかを見失い、自害の道を選ぶ人間も出てくる。

私はたまたま早い段階で、
音楽という道を見つけた。

すごく恵まれていると感じる。

私はたまたま運がよかっただけなので、「運がよかったこと」に対してはただ「運がよかった」だけとしか思っていない。
だから「夢を持て」などと人にむやみに言ったりはしない。
「夢を持つことが善」とは一概に思わないからだ。

あと、「夢」という言葉を知らない子供がいるということ。

ある人に聞いた話。
とある貧しい国の小さな子供に「将来の夢は何?」と聞いたところ、
「夢とは何か?」と逆に聞き返されたらしい。
でも彼らはいつも笑顔。
とても楽しそうに生きている。

「夢」という概念がないからといって、それは不幸なことなのか?
それを不幸と感じるのは、その概念を持っている側から見た、上から目線の考えだ。

例えば、スマホを持ってなくても、人は生きていけた。
けれども今、スマホがなくなったら、気が狂ってしまう人もいるだろう。
本来知らなければ、それ相応に生きていけたのに、
それが当たり前になったので、
なくては生きていけないと勘違いしてしまっているだけだ。

「スマホ」と同じように、仮に「夢」という言葉が存在していなくても
明るく楽しく生きていくことはできる。
その概念がないことは必ずしも不幸ということではない。それを持っている人間の「傲慢」な考え方だ。

社会というものには実態がない。
なんだかよく分からないものだ。
少なくともそんな、ふわふわした、曖昧なもののために死ぬことはない。
と私個人はそう思う。

更に言えば、死ぬ事が悪と決めているのも人間である。

時代によっては「死」が善として受けいられる時もあった。密教なんかは死ぬ事が善だしね。

所詮人間という不完全な存在が、その時代時代の流行で、その物事の善悪を決めているにすぎない。

だからね、私が言いたいのは、
「んなどーでもいいことに踊らされんな。」
ってこと。

そもそも自由とは不自由の上で成り立っている。

自由だからなんでもよいのではなく、ある一定のルールの上(不自由の上)に乗っかっているから、それを自由と呼べるんだよ。

だからね、SNSでなんでもやり放題にやってる人達、君たちは自由という言葉に生まれてからずっと追いかけ回されて、振り回されているということだ。

自由には責任が伴う。
だからこそ、自由なのだ。

それが分からなければ、多分あなたが知りたい自分の幸福のあり方も一生分からないまま、自由を履き違えたまま終わる。

この記事を読んで頂いている皆さん。
SNSと切っても切り離せなくなったこの時代に改めて考えてほしい。

自分の幸福とは何かを。

私の持論は以上だけど、古典の「自由論」とどれくらいわたしの考えがマッチしているか、ドキドキである。

さて、次のページをめくろう。

追伸:私の幸福?それは…

今日も音楽をやって、自分をかっこいいと思いながら死ぬ事。